平安時代に書かれたといわれる辞書「和名類聚抄」には、梅は木の実・果物に分類されています。奈良時代の人々は、桃やびわ、なしなどと同じように「梅の実」を生菓子として食べていました。
平安時代中期、六朝・隋・唐時代の中国や朝鮮の医薬書から引用した医学全般にわたって説かれた本「医心方」は、日本最古の医学書といわれています。この文献の中で、「梅干」の効用がとりあげられています。
鎌倉時代、武家社会では、もてなしは「椀飯(おうばん)」と呼ばれ、兵士の出陣や凱旋の時には、クラゲ・打ちアワビなどに「梅干」や酢・塩が添えられたご馳走が出されました。また、禅宗の僧は茶菓子として、「梅干」を用いました。「椀飯(おうばん)ぶるまい」はここからできた言葉です。
江戸時代、雑兵たちの体験談をまとめた兵法書「雑兵物語」では、戦に明け暮れる兵士は、食料袋に「梅干丸」を常に携帯していたと書かれています。「梅干丸」とは、梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍の間、身体を調えたり、生水を飲んだときの殺菌に役立ちました。
一部の人にしか食べられていなかった梅干も、江戸時代には庶民の食卓に登場するようになります。梅干を食べる習慣が全国に広がるにつれ、梅干の需要はますます高くなりました。特に紀州の梅干は評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が樽詰めされ、江戸に向け、田辺港から盛んに出荷されました。
江戸では、大晦日や節分の夜、梅干に熱いお茶をそそいだ「福茶」を飲み、正月には黒豆と梅干のおせち「喰い積み」が出されていました。梅干は、当時から縁起物として食べられていました。
明治11年、和歌山でコレラが発生し、たくさんの犠牲者が出ました。当時、梅干の殺菌力が見直され需要が急増しました。また、日清戦争の頃、伝染病にかかった兵士に梅肉エキスを与えて完治させ、梅干の薬効が実践されました。